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パンポン名付け親の一文

日立製作所の社内誌にパンポン名付け親の高尾直三郎氏の「パンポンと私の夢」という文章が

紹介されたのを、何かで見つけ後で紹介しようと思っていて、だいぶ経ってしまいました。

参照元がどこかはっきりしませんので、ご案内できずに申し訳ございません引用させていただきます。

 

 

 

「パンポンと私の夢」

高尾直三郎氏 ※株式会社日立製作所 相談役

 

先月日立クラブ担当の十河君が部屋に来て、ニコニコしながら恐縮の体を整え、来月に社内パンポン第三回優勝大会を開き、優勝杯を新たに作り、それにおまえの名を冠するから承諾しろとの、優しい強制である。

 

私は老人であるし、若い時から運動は見るのは好きだがやるのはまことに不得手で、競技の優勝杯にその名をとどむることはおよそ不似合いで、それが持つ名誉にそぐわないから、辞退すべきであるが、今回はその不適をも省みずあえてお受けしたのは、実は私がその名づけ親だからである。※株式会社日立製作所 日立工場長時代

 

私は昔から、熱に浮かされたようにときどき名づけ親になる悪癖があって、パンポンもその一つである。

 

しかし終戦後、勇敢なる国際大和撫子にこれと類似名がつき、わが名誉ある運動競技名に先んじて国中誰知らぬものなきに至ったときはいささか苦笑をし、なにか心の底に自分のふがいなさをあざける声を聞いた。

 

このパンポンほど簡単でおもしろく、国際性さえもつものはない。それほどの競技が茨城県の山の中の工場に発生したことは、日本人の名誉である。それであるのに、私は名前をつけただけにとどまり、更にこれをひろげることをしなかったから、この類似名が代わって流行し、日本人の弱点名として、海外にまで知られるようになったからである。もっとも両方とも呼びやすいからだといえば、つけ名としてよかったともいえる。

 

幸いにこれらの類似名も、日本の独立とともにいつのまにか雪解けしてしまい、逆にわれわれのパンポンはそれが持つ実力が現われて、大東京の中心、日本一の新丸ビル屋上で大々的に流行し、そのトーナメントがことしは第三回になり、優勝杯まで作られることになったのは、日立が百億円の会社になったくらい私には愉快である。

 

パンポンが生まれたのは大正の中期で、日立はなお少年期であったが製作にいささか自信を得て、雄飛の志工場に満ちみちていたころである。キャッチボールが窓ガラスをこわすので禁止せられたのをきっかけに、運動好きの青年、老年がいつのまにか舗装道路に線を引き、そこいらに捨ててあった手ごろの板切れを拾って、ゴム球を打ち返すことから始まった。あるいは最初は手のひらであったとも思う。

 

おもしろいのでまたたくまに工場内に広がり、昼休みには打ち返す球の響きと、大ぜいの爆笑とがいたるところに起こった。私はこれを見て感激して名づけ親を申し出るとともに、改めてルールを作り、それによって自然的に発生したこの競技を進歩発達させることを願った。

パンポンの特徴は簡単で手軽で、やって愉快で見ておもしろいことである。身ごしらえさえいらないから、屋上でも道路でも室内でも即座にできる。職場の人々の食後の運動としてこれにまさるものはない。あとの祭りではあるが、南極観測隊にこの用具を数組持たせ、そのルールを披露しておけば、宗谷が氷にとじこめられている時に船室内でこれを競技することによって、更に新しい力を得たであろうし、耐寒工夫をしてあれば基地越冬村でも試用してもらえたと思う。

 

日本は大戦と、敗戦と、更に戦後の立ち上がりという、かつてない大試練を経たが、今日改めて振り返ってみると、民族の能力に対して自信を得たことになり、今後の進み方に希望の光を認めたともいえる。これを日立流の立場からすれば、半世紀前に日立がこれを考えこれを実行したことが、日本の歩むべき最良の道であったことの証明ができたとさえいえる。

 

それだからである。パンポンもこの優勝杯を制定する機会に、いま一度その能力と、その効用と、その国際性を再確認し、改めてこれが発展を計るべきである。

 

まずこれを日立全社に広めたい。工場にも営業所にも伝え、これがルールも更に改善したい。いくら簡単がよいといっても、ラケットはもう少し当世流行様式にチャーミングにしたいとも思う。会社でよいとなれば営業の人々はお客さんに、総務の諸君は官庁などに、用具やルールの冊子ぐらいは寄付して広めたいくらいだ。運動を広めることにもいわば営業的行動がいる。日立の技術や製品が良いからといって、大きい意味のPRや営業をおろそかにしてならぬことと似ていると思う。そうして何年かのちには、都会ではビルの屋上に、山の中の発電所ではダムの上場に、工場では舗装道路上に、日本中から朗らかなパンポンの音が、多くの人々の単なる勝敗を度外視した、親睦的意味合いをこめてこだまするようになりたいものである。

 

話が大きくなるが、更に進んで海外出張を通じて全世界に流行させてみたい。ウエルズは「日本の僻陬文明は人類の運命の全体的形成にたいした貢献をしなかった。日本は多くのものを受け取ったが、ほとんど与えるところがなかった」と言ったが、今まではそうであっても、これからは与えてみたい。われわれは製品の輸出と並んで、運動競技も輸出してみたい。

 

おそらく日立製品が全世界に行きわたるころには、四年目ごとに世界パンポン選手権大会を、東京は千駄ヶ谷の都の体育館で開き、人種を越え、民族を差別せず、資本主義の国からも、共産主義の国からも、AA会議の国からも参加するようにしたい。

その時は、今度制定したささやかな優勝カップよりも数倍大きい、できれば千代の山が一月場所で勝ち取ったくらいにもしたい。

私は今このような夢をみている。むろんこの夢が実現するころには、西方十万億土から超超超超マイクロの日立カラーテレビで、この大会を見て喜ぶであろう。

 

(昭和32年4月1日、本社日立クラブ発行「日立クラブ」紙より)

 

 

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